バッハのヨハネ受難曲とマタイ受難曲

　世界のクリスチャンはいま、３月２９日の主の受難を前にして、イエスの道を思い起こし、心を改める、四旬節を迎えています。

　約２５０年前ヨハン・セバスチャン・バッハも、この季節、受難の主日に演奏する
ために受難曲の作曲に余念がありませんでした。しきたりにしたがってマタイ・マル
コ・ルカ・ヨハネの福音書の受難の部分を音楽にしていったのです。今、幸いはっき
りと残っているのは、マタイとヨハネの受難曲です。受難曲というのは福音書の終わ
りの部分にあるイエスの受難の記事を朗唱し、その場その場にふさわしい詩を歌うコ
ラールやアリアを組み合わせてつくられたもので、受難の主日の金曜日の午後に演奏されたのです。演奏された場所はバッハが教会の音楽監督をしていたライプティッヒの聖トマス教会と聖ニコライ教会の二階にある学校の講堂の舞台ほどの狭い合唱隊席でした。

　私は幸いこの二つの受難曲を大きな合唱団で歌うことができました。いずれも１年
以上練習をしないと歌えない大曲です。この両受難曲に深く接するうちに、バッハが
この二つをそれぞれに福音書の個性を掴んで、作曲したことに気が付きました。４つ
の福音書はそれぞれが個性的です。しかしバッハの時代には、これを一つの矛盾する
ことのない福音書にまとめて、調和福音書というものを作るという試みがなされたこ
ともありました。それはすべての福音者が聖霊によって書かれ相矛盾する筈が無いものとする信念が合ったからです。特に福音書の受難の部分は共通した内容をもっています。しかしバッハはそのように考えず、個性的であることをそれを見抜いていました。

　そこでバッハがヨハネとマタイに基づいて受難曲を作るにあたって、その個性をど
のように尊重して作ったかを理解するためには、福音書自体にさかのぼる必要があり
ます。
この両福音書はいろいろの意味で、両極端の存在です。マタイは歴史上３番目に書か
れたのですが、４つの福音書の冒頭におかれ、常に第１の福音書として、尊重されて
きました。ご存じのようにキリスト教は、ローマ国教になって以来、イエスの望まな
い方向にも歩みました。その一因がマタイの福音書にあるように思えるのです。マタ
イは、ユダヤ人を対象として書いたこともあり、ユダヤ教の遺産を尊重して書きまし
た。それはイエスの意図とはそぐわなかったかも知れません。神の厳しさ、戒律と
罪、死後の最後の審判の恐怖、ユダヤ人迫害、これらキリスト教の陰の部分の多くは
マタイの福音書に起因しています。　バッハがルター派の敬虔主義の信仰に生き福音
書を徹底的に把握しました。バッハがマタイの受難を音楽にするとき、その性格を巧
みに表現しました。まずイエスを神として表現しました。イエスの言葉を朗唱する音
楽は、常に光彩を頭に抱いたような伴奏がつき、他の人物の言葉とは違うことが表現
されます。そして全体として徹底して、イエスの受難をひたすら悲しむ音楽としまし
た。 イエスの苦しみは私たちの罪によるものだと痛切に悔いる音楽です。マタイを最
大の名曲とする人が多いのは、その感情表現の豊かさにうたれるためでしょう。

　それに対しヨハネはマタイを修正するために書かれた福音書であるかのようです。
「私は裁くために来たのではない。あなた方を友と呼ぶ。私を信じる者には、永遠の
いのちを与える」と繰り返しいわれるのはヨハネの福音書のイエスです。
　ヨハネの受難曲では、バッハはイエスを人として表現しています。イエスの言葉の
朗唱には、マタイにある光彩のような伴奏はありません。他の人物の言葉とおなじ表
現です。受難の時のイエスは、人の苦しみをわがことのように苦しむ友であり人で
あったのです。イエスを死に追いやった当時のユダヤ群衆の叫び声も憎しみよりも何か軽やかな愚かしさとしてえがいているようです。そしてこの受難を、悲しみよりもイエスの言葉通り「成し遂げられた」勝利と見ているのです。全体を通して壮大な神秘に満ちあふれた音楽です。

　それらの違いは冒頭の曲と終曲の二曲を比べれば、はっきりとその性格が出ていま
す。マタイの冒頭はイエスが十字架を担いで歩む重い足取りを伴奏にして、御代共に
泣けと歌います。ヨハネは主よ主よと印象的な呼びかけと、受難の極みにあっても讃
えられると歌います。マタイの終曲は涙なしには歌えないような哀切の別れで終わり
ます。ヨハネの終曲でも同じようにも、安らかに憩えと出だしますが、これからはも
うあなたのことを嘆き悲しまない、我々のために天国の扉は開かれたという大曲で終
わりに近づくのですが、その後にさらに、救い主イエスを永遠に誉め讃えるコラール
が入って終わります。バッハはこのように、二つを深いところで把握して音楽を造っ
ていると思います。

　バッハの受難曲はマタイがあまりにも有名ですが、悲しみと痛悔がイエスの望むことではないのではないでしょうか。どうぞヨハネ受難曲をお聞きになることで、バッハの信仰の豊かさに触れまた真実のイエスに出会ってください。